今回は、3冠のうちの「インターナショナル選手権」について、少し書きますね。

インターナショナル・チャンピオン というのは、1950年代に、
当時NWA世界ヘビー級チャンピオンだった「鉄人」ルー・テーズ選手が
世界王者として精力的に世界各地を回り、防衛戦を重ねた功績をたたえて、
彼(ルー・テーズ選手)に与えられた称号だったそうです。

ですから、本来は、防衛戦を行うような タイトル ではなかったようなのですが、
その後、NWA王者から陥落したルー・テーズ選手が、
「インターナショナル・チャンピオン」を名乗って試合をし、
また、手元にあったチャンピオンベルトを持ち出してきて、
ベルト姿で試合に臨んでしまって、いつのまにか(また、意図的にかもしれませんが)
インターナショナル・チャンピオンがタイトルのようになっていたのだと思われます。
当時のルー・テーズといえば、
たとえNWA世界王座から陥落していようといまいと、
その実力は天下一品であり、「インターナショナル・チャンピオン」の称号は、
だれも文句のつけようのない、彼の実力であり、プライドでしたから、
手持ちのベルトを巻いて「インターナショナル・チャンピオン」として
リングに上がるのも、衆人が認めていたのです。

その頃、打倒ルー・テーズを目標に頑張っていたのが、
日本のプロレスの父 力道山 でした。
彼(力道山)は、とうとうNWA世界王座には手が届きませんでしたが、
1958年、ついにロサンゼルスで、念願の打倒ルー・テーズを果たし、
「新・インターナショナル・チャンピオン」として凱旋帰国しました。
元々インターナショナル・チャンピオンの「チャンピオンベルト」という物は
存在せず、ルー・テーズの腰にあったのは、彼が個人的に所有していた
「記念品」的 代物でしたので、力道山に渡ることはなく、
力道山は、帰国後、新しいチャンピオンベルトを作成しました。
このベルトを腰に巻いて、力道山選手は、インターナショナル選手権者として
防衛戦を戦い続けていましたが、1962年に、新しいチャンピオンベルトが
作られました。
第1号のチャンピオンベルトは、NWA世界王者のベルトを模して作られましたが
本物と比べると、ちょっとカッコ悪く、細部の作り込みも大雑把で、
力道山自身があまり気に入っていなかったから らしいです。
第2号のチャンピオンベルトは、NWA世界王者のベルトそっくりに作られていて、
RIKIDOZAN と、名前入りでした。
(時期的にWWA世界王座とのからみもあるのですが、この辺は、割愛します。)
この2代目ベルトで、力道山選手は、インターナショナル選手権の防衛戦を
続けていましたが、暴漢に刺されて死亡してしまい、タイトルは、棚上げと
なってしまいました。

初代ルー・テーズ → 2力道山 → 力道山死去


数年後、日本プロレスのエースとなっていたジャイアント馬場選手は、
「復活」インターナショナル選手権の決定戦でディック・ザ・ブルーザー選手を下し、
初代王者となりましたが、このタイトルには、力道山ゆかりの という
歴史が与えられ、第3代王者としてファンに認められました。
この時に、大鷲をモチーフにした新しいチャンピオンベルトが作られました。
このベルトが、今日、3冠選手権の一角として、連綿と受け継がれてきているのです。

ジャイアント馬場 → 4ボボ・ブラジル → 5ジャイアント馬場
→ 6ジン・キニスキー → 7ジャイアント馬場 → タイトル返上
ボボ・ブラジル → 9大木金太郎
 
と、ベルトは歴史を重ね、日本プロレスの崩壊後も大木金太郎選手は
韓国で王者として防衛戦を行っていましたが、NWA本部の指示により、
アジア選手権との交換という形で、大木金太郎選手は 王座を返上しました。
空位となったインターナショナル選手権は、
全日本プロレスのリングにて、新たな王者決定の争奪戦が行われ、
この時に、チャンピオンベルトの改修が行われ、キレイになりました。

10ドリー・ファンクJr → 11ブルーザー・ブロディ → 12ドリー・ファンクJr
→ 13ブルーザー・ブロディ → 14ジャンボ鶴田 → 15スタン・ハンセン
→ 16ジャンボ鶴田 → 17ブルーザー・ブロディ → 18ジャンボ鶴田
 と、
受け継がれましたが、1989年に、最終の 第18代王者ジャンボ鶴田選手が
UN&PWF2冠王者のスタン・ハンセン選手を下し、三冠統一に成功したのです。


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